「おい、お前。レフト守れ!」と、兄貴分の男。「うん」と頼りない返事をし、ぶかぶかの帽子と真新しいグローブを持って、やたらと広いグランドを走る。内野陣には逞しい先輩たちが玄人っぽい声を出して守備を固めるも、外野といったら、ユニフォームさえ板に付かない小学生ばかり。もちろん少年野球の経験は乏しい。おおよそ30年前。駅前の野球チームの練習風景だ。
商店街が隣接する駅前地区は、店は多くとも、そこへ住まう家族は決して多くなかった。
麻里布小学校の校区にあって、ほとんど自治会毎の子供会がソフトボールのチームを組成していたが、麻里布3丁目子供会と隣の2丁目子供会は、合同してやっと野球ができるだけの頭数だった。
麻里布第3街区児童公園。当時はなぜか6号公園とも呼んでいた、通称「三丁目の公園」は、そんな子供たちが集う数少ない広場となっていた。
タバコの吸い殻や割れたビール瓶、雨に濡れて固くなった成人向けの週刊誌とか、なにしろ歓楽街の真ん中にある公園だから、散乱するゴミも子供にとってはエキゾチックな物ばかり。そんな中にブランコや砂場、滑り台などの遊具が設置されていた。
駅前のロータリーから、駅前空襲を慰霊する乙女像が公園内へ移設された平成5年に、「三丁目の公園」は大きな改修工事を施されたが、それ以前は、春になると公園の柵は見事な桜に取り囲まれ、北東の一角には噴水とベンチがあった。
夕暮れ時になるとサラリーマン家庭の子供たちは次々と家路に就く。店を営む家庭の子供たちだけが取り残され、そんな仲間と一緒に、カクテルライトに照らされて変幻する噴水を見て過ごした。寂しさなんてへっちゃらで、遅くまで公園を支配できる駅前っ子であることに、何か大きな誇りと優越感を持っていた。
先頃の改修で公園は、すっかり姿を変えた。一部の桜は伐採されて、代わりに遊歩道が敷かれた。公園を囲む建物も大きくなった。もはや子供の遊び場たる役目は終わり、都会のオアシスというべき性格を備えたのだろう。
事実、子供たちの遊び方も、時代と共に激しく変化した。もしもテレビゲームが誕生していなかったら、ひょっとすると「三丁目の公園」には今でも、ボールを追いかける子供たちの元気な姿が、黄昏の噴水に重なって見られたのかも知れない。
(文・ふじたのぶお)
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